力道山 (역도산) プロレス:幕開け期

力道山がアメリカ修行からシャープ兄弟を連れて凱旋帰国、それは日本のプロレス幕開け。

したたかな力道山は、プロレスラーとしても先輩である、木村政彦・山口利夫を利用し、のし上がっていく。

木村政彦・山口利夫との日本一決定戦。そしてルーテーズの世界ベルトへのこだわり。駆け足で追ってみる。

プロレス幕開け期(昭和29年~昭和32年)

テレビ放送とプロレス

昭和29年(31歳)
1954/02/01
M・モンロー初来日
 
1954/02/08
山口利夫が大阪府立体育会館で駐留軍と「マナスル登山後援基金募集 日米対抗プロレス」を興行。NHK大阪が試験電波でプロレス初の実況中継が放送された。
 
1954/02/17
シャープ兄弟初来日 羽田空港の土を踏む
 
1954/02/19
東京・蔵前国技館にて3日間連続興行
大阪の山口利夫、熊本の木村政彦の協力を得て開催。
初日は日本テレビとNHKが二元中継
新橋駅西口広場の街頭テレビには群集2万人が詰めかけた
2013年2月に放送された、NHKと日本テレビ共同企画「NHK×日テレ60番勝負」の公式サイトでは、日テレだけが放送したことになっている。つまり、NHKはプロレスの過去を消したのだ。
来日外国人レスラー:ベン・シャープ、マイク・シャープ、ボビー・ブランズ、ハロルド登喜、ボブ・マンフリー
 
1954/02/21
連続興行3日目 力道山・木村組が、NWA世界タッグ王座に挑戦するも1対1の後レフリーストップで無効試合となる

プロレス三国時代

 
1954/03/14
大阪で山口利夫が「全日本プロレス協会」(後のJ・馬場の全日本プロレスとは全く別)を設立
会長には松山正次郎(酒梅組組長)、レスラーは、清美川、長沢日一、市川登、山崎次郎、吉村道明
 
1954/05/10
熊本で木村政彦が「国際プロレス団」(後の吉原功の国際プロレスとは全く別)を設立
レスラーは、立ノ海松喜、大坪清隆、戸田武雄、戸田和雄
東京の力道山との対決姿勢を全面に出すことでしか生きのこる道は残されていなかった。

力道山の日本プロレスが初の全国巡業

 
1954/08/09
国際試合シリーズ第2弾開催で全国巡業開始
巡業先神戸では、山口組三代目組長田岡一雄組長への挨拶も済ませていた。
 
1954/09/21 10
大阪府立体育会館で、力道山・遠藤幸吉組がH・シュナーベル、L・ニューマンを破り、太平洋沿岸タッグ王座取得
この時力道山のパートナーを駿河海と遠藤幸吉とで争っていた
 
1954/09/21
東京体育館にて、力道山・遠藤幸吉組が太平洋沿岸タッグ王座奪取防衛

日本人頂上決戦

 
1954/11/01
朝日新聞紙上で木村政彦が力道山を挑発
この頃が大新聞もプロレスを取り上げていたが、毎日新聞はスポンサーとなっていたので好意的な記事であったが、朝日は批判的だった。
 
1954/11/03
日本:東宝の特撮映画水爆怪獣「ゴジラ」が封切
 
1954/11/25
木村政彦(国際プロレス団所属)が力道山に対して「全日本タイトル」をかけて挑戦。力道山は即日受諾
大阪の山口利夫は勝者と戦うことを前提とし、日本選手権として認めると声明を発表
 
1954/11/2712/17
力道山対木村の日本選手権大試合の調印式が行われる。
 
1954/12/2
当時夕刊紙のNタイムス記者をしていた門茂男の密着取材に、ポロリとブック破りを匂わせていた。
 
1954/12/21
日本プロレスリング・コミッショナー設立。‐歴代コミッショナー 欄外参照矢印‐ 22日の試合を、日本選手権試合と認定。また、両者にライセンスを発行。
 
1954/12/22
『巌流島の決闘』「日本選手権大試合」蔵前国技館にて力道山 対 木村政彦戦
木村政彦7段(柔道家)を失神で破り(15分49秒ドクターストップ: 注 レフリーによるテンカウントでコングが鳴らされ試合はそこで終了)、力道山が日本選手権保持者となる。
YouTube(01:27) チャンピオンベルト矢印

この試合は、今では力道山のブック破りが定説となっているが、筆者はそう捉えていない。

一に、ブックメーカーは力道山だから。二に、力道山は木村が書いて渡した引き分けの紙を破いて捨てている。つまり、力道山のブックには引き分けはなかった。三、木村は峠を既に越えていて練習もしてない。四、試合が始まっても、ブックが決まっていなかった。だから、試合中何度も木村が確認している。

木村のプロレスに対する構え方と、力道山の野望には大きな隔たりがあり、最初から噛み合っていない。プロレスにブックがあるのを言い出した木村を潰そうとしたのは、当たり前だ。

昭和30年(32歳)
1955/01/26
山口利夫(全日本プロレス協会所属)の本拠地・大阪府立体育館で日本タイトル初防衛戦。2-0で力道山が防衛。
以後、日本人で力道山に匹敵する実力のあるレスラーが出てこなかったことや、力道山自身日本人との戦いにファイトが出ないと言っていたように防衛戦はこの一戦のみに終わることになる。
 
1955/02/08
第3回渡米に際し、帝国ホテルにて壮行会を催す
 
1955/02/10
酒井コミッショナー代理永田貞雄氏を立会人として力道山・木村政彦和解
 
1955/03/27
元横綱の東富士と共に3回目の渡米
 
1955/05/25
日本(在日):在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の結成大会(25,26)

元横綱の転身

 
1955/07/02

第3回渡米より東富士とのハワイ・タッグ選手権を土産に帰国 72戦全勝

 
1955/07/07
東富士の断髪式にポロシャツで参加 サンケイ・ホール
 
1955/07/08
通称「レスリング・センター」が日本橋人形町に完成,鉄筋5階建 延べ700坪、総工費7500万円

世界挑戦へ第一歩

 
1955/07/15

"ハワイ・中南米タッグ・チャンピオン・シリーズ"開幕

ルー・テーズが力道山の世界戦挑戦を受諾す、の入電

 
1955/07/17
東京大会3日目のリング上から、NWA世界戦挑戦を発表
 
1955/07/28
東京・後楽園球場の特設リングで、初のプロレス興行。

アジア制覇

 
1955/09/07
東京都体育館で、"メキシコの巨象"ジェス・オルテガと一騎打ち。
 
1955/09/13
アジア選手権(東洋選手権)の確立を目的にシンガポールへ出発
 
1955/11/08
"アジア選手権シリーズ"開幕

 
1955/11/22
キング・コングを破り、初代アジアヘビー級王者となる。(その後8回連続防衛)
チャンピオンベルト矢印
 
1955/12/28
日活映画『力道山物語 怒涛の男』が上映。
 プロデューサーは作曲家の古賀政男、主題歌は美空ひばり。
 
1955/暮れ
新居(池上)へ移る。長女

世界タイトル

昭和31年(33歳)
1956/01/26
世界遠征に出発。(シンガポール、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ)
 
1956/02
アルペンスキー:イタリアのコルティナダンペツォ冬季オリンピック男子回転で冬季五輪初となるメダル(銀メダル)を獲得。
 
1956/04/19
世界遠征から帰国。
 
1956/05/04
力道山・遠藤幸吉組がシャープ兄弟を撃破、NWA世界タッグ選手権者に。
 
1956/05/10
力道山・遠藤幸吉組がシャープ兄弟に破れ、NWA世界タッグ選手権者陥落。
 
1956/06/25
力道山のオヤジ(タニマチ)新田新作氏が東京日本橋浜町の自宅で急死 死因は急性心不全
また同日?酒井忠正氏が日本プロレスコミッショナーを正式に辞任
 
1956/09/02
”赤いサソリ”タムライス(太平洋沿岸ヘビー級選手権者)撃破、第1回渡米時の雪辱果たす。
1回目の渡米で3敗した1人
昭和32年(34歳)
1957/02/15
渡米(ハワイ→米本土)
 
1957/04/30
ルー・テーズとのNWA世界戦開催契約に調印
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「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」

実は、木村は力道山よりも先に同じハワイへ渡米しプロレスリングをやっていたのだ。しかし、「柔道家」の肩書きを捨てきれず柔道のデモンストレーションの傍ら、プロレスラーとして小遣い稼ぎをしていたというのが実情のようだ。

その後木村は、アメリカ本土・欧州・南米を転戦し活躍したのだ。最も有名なのが、昭和26年(1951年)10月23日ブラジル・リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムでブラジル大統領も観戦した試合で、柔道技の「腕がらみ」(後に『キムラロック』と名付けられる)でエリオ陣営からタオルを投げ入れTKO勝ちした試合だ。後に、エリオ自身は「俺はギブアップしていないから負けてない」と言っている。確かに、この試合のルールも「10分3ラウンド、ギブアップした方の負け」ということなので言い分はもっともだ。木村も「試合では、勝っても、勝負への執念に関しては、私の負けである」と認めている。

この木村を絶妙に利用した力道山側(プロモーター永田貞雄等)の実力たるや「戦後の日本」そのものだと私は思う。

※「腕がらみ」は古流柔術時代からあった技。また、木村政彦VSエリオ・グレイシーの対決を「柔道VS柔術」と言われるが、そもそも木村政彦は柔術出身なので柔術柔道(私の造語)VS柔術なので、木村が負けるわけがない!

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