格闘技/プロレス/力道山  역도산

プロローグ

激動の戦後を駆け抜けた男・海峡を越えた英雄・天皇の次に有名な男 力道山역도산こと金信洛の波乱万丈な人生を年表にまとめてみました。

力道山がよく口にしていた、『プロフェッショナル』へのこだわりが伝わるだろうか?

また、力道山は日本に帰化していない。なぜなら、講和条約が発効される前年に就籍届によって日本国籍を取得しているからだ。

力道山の歴史を紐解く上で、東アジアの出来事で特に大きな転換期となった中国大陸の清王朝に遡りたいと思う。

西暦1644年、朝鮮のお隣では明王朝が滅亡(漢民族最後の王朝)し、清王朝(満洲人の王朝)となる。

1820年代になると、イギリス(大英帝国)が三角貿易を推し進めるなか、中国では既にアヘンの取引は禁じていたが、実際は流通していた。1839/03には林則徐による一連の阿片取り締まり強化がはじまり、1839/05/24 に広東在住の全英国人はマカオに退去した。

同年06/06 林則徐は、イギリス商人が持っていたアヘンをまとめて海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって処分し、この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えたとも云われている。

その後、イギリスは太平洋艦隊を率い、アヘン戦争が勃発し、戦争は二年続いたが、清軍が敗れ、1842/08/29 南京条約(不平等条約)が締結。清は多額の賠償金を背負う。そして、香港を割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海を開港することになった。

一方日本では、徳川幕府が倒れ、天皇制の復活。改めて開国し、列強に習い軍国主義と傾いていく。

この時、朝鮮は始め日本の天皇制とする新政府(明治政府)を認めなかった。清国の冊封国であると自認しており、天皇制などあり得なかったのだろう。

朝鮮内部では、親日と親清つまり改革派と保守派の構図があり続く。そして、日本軍がクーデター派につき、保守派が清軍に助けを求め、半島で日本軍と清軍が争う形となったが、このクーデターは失敗し、日清は一旦は撤退する。

その後、今度は清軍が先に派兵を要求され、日本軍が後を追う形となり再び両軍が朝鮮半島で睨み合う形となる。

日本軍は王宮を占拠し、国王高宗を手中にし形式上新政府を樹立させた。そして清軍掃討を日本に依頼させ開戦となる。その後正式に日清両軍が宣戦布告し、日清戦争が始まった。

日清戦争の結果、西暦1895年(清:光緒21年、朝鮮:開国504年、日本:明治28年)に日本と清の間で結ばれた下関条約(日淸媾和條約)において、朝鮮は中国の封建体制に幕を閉じることになったわけだが…。

朝鮮は独立国と認識され、列強及び日本と不平等条約(条規)を結ばされる。

高宗は皇帝とする独立国家となるわけだが、清国から独立したが、日本の支配下に変わり、併合という最悪の事態を招いてしまった。

ということと、力道山自身が日本皇民を自負していた(ように思われる)ので、時代表記は日本表記としております。

力道山のプロフィール

出生
朝鮮半島 咸鏡南道(ハムギョンナンド)浜京郡龍源面新豊里三七番地(現・朝鮮民主主義人民共和国統治範囲)
戸籍名
金 信洛金村 信洛金村 光浩百田 光浩
朝鮮名
金 信洛(キム・シンラク、김신락
四股名/
 リングネーム
力道山 역도산) RIKIDOZAN
生年月日
大正13年(1924年)11月14日
諸説あるがここで戸籍(及び日本のパスポート)の日付とする。ただし、本サイト年表では、筆者が有力と思う、1923/07/14とする。[1]
両親・兄弟姉妹
父・金 錫泰(キム・ソクテ)[漢学者]、母・田 巳(チョン・ギ)
長姉:因女(インニョ)、長兄:金 恒洛(ハンラク)、次姉:久任(クイム)、次兄:金 公洛(コンラク)、三姉:乙福(ウルボク)
娘・息子
英淑(ヨンスク)、千栄子、百田義浩、百田光雄、田中浩美
出身地
長崎県大村市
墓 地
東京都大田区・池上本門寺(長栄山大国院本門寺)
宗 派
日蓮宗。祖山(総本山) は、山梨・身延山久遠寺(くおんじ)。宗務院が池上本門寺。
ちなみに、関係は無いが創価学会は日蓮正宗の傘下にいたが、現在では海外組織「SGI」とともに破門(1991/11/28)されている。
死 後
死亡時刻から現在(パソコン時計)までの時間をリアルタイムで表示
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時代背景

力道山 生前の時代背景

時代背景:朝鮮時代(李氏朝鮮~大韓帝国)

文久3年
1863/12/13(11月3日)
朝鮮高宗が李氏朝鮮第26代国王(〜1897/10/12)に即位(11歳)。後の大韓帝国皇帝。※興宣大院君が執政。3年後に閔妃(15歳)と婚姻。
慶応3年
1867/11/09(10月14日)
日本大政奉還:第15代征夷大将軍徳川慶喜が時の天皇明治天皇に統治権の返上を上奏し翌15日に天皇がこれを勅許ちょっきょした。(日本における王政復古)
明治元年
1868/10/23
日本元号を明治と改元する。 旧暦慶応4/9/8
改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されるとした
 
1868/12/19
日本新政府は、新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書李氏朝鮮政府に送ったが、朝鮮側は受け取りを拒否した(書契問題)。その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した
明治2年
1869/03/28
日本 東京城(再)入場「東京城西ノ丸ヘ御駐簾ごちゅうれん、依テ、皇城ト称ス」 (政府発表)をもって、帝都東京の誕生
明治4年
1871/09/13
日本・清日清修好条規を締結。
平等な条約であり、日清戦争勃発まではその効力が続いていた
明治5年
1872
日本1872年(明治5年)に新暦を導入。
明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を明治6年1月1日と定めた(明治5年太政官布告第337号)。
明治6年
1873
日本明治六年政変(征韓論政変)。
征韓論(板垣退助らの軍事力による開国論)に端を発した西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題(先ず特命全権大使=自分)から、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。
明治4年
1873/11
朝鮮大院君が失脚、高宗が親政を司る。
政権は大院君から閔氏一族のものとなり、改革派勢力が台頭してくる。が、後に大院君は復権することとなるを
明治8年
1875/09/20
日本・朝鮮江華島事件 日本と朝鮮の間で起こった砲撃事件
朝鮮改革派(日本がモデル)である独立党と守旧派(親清的)である事大党の対立。独立党は清国との宗属関係を打破して近代化を目指した一方、宗属関係を維持したまま近代化を目指す親清開化派もあった。
明治9年
1876/02/27
日本・朝鮮江華島条約(日朝修好条規)
朝鮮が、開国する契機となった条約であると共に、朝鮮側に不利なものとなっている。不平等条約。日本人商人との取引などによる物価の騰貴。
その後西洋諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも同様の条約を締結することとなった
明治15年
1882/05/22
朝鮮米朝修好通商条約締結不平等条約
 
1882/07/23
朝鮮壬午事変(壬午軍乱)=漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱
閔妃暗殺は失敗に終わる。
 
1882/08/30
日本・朝鮮済物浦条約
壬午事変の余波での日本公使館焼き討ち事件の事後処理の為に結ばれた。
また同時に日朝修好条規続約(追加条項)として、居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴を認めさせた不平等条約
明治17年
1884/12
朝鮮甲申政変(開化派の独立党によるクーデター)
日本に保護を求め、日本も軍を派遣し王宮を守るが、清軍が攻め入り敗退・撤退する。開化派による新政権はわずか3日で崩壊
明治18年
1885/04
日本・清・朝鮮日本と清国が天津条約を結ぶ
清国と諸外国間に締結された17条約の通称。日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵
明治22年
1889/02/11
日本大日本帝國憲法公布
翌明治23年11月29日施行
明治27年
1894/05
朝鮮甲午農民戦争 朝鮮で起きた内乱
 
1894/07/16
日英条約改正(日英通商航海条約)が実現
 
1894/07/23
日本軍が漢城(ソウル)に入城し、朝鮮王宮を勢力下に置く
 
1894/07/25
豊島沖海戦:清国軍艦が日本海軍に攻撃、戦闘開始
 
1894/08/01
日本・清日清戦争:日清両国が相互に宣戦布告。
明治28年
1895/04/17
日本・清日清媾和條約締結(下関条約)
不平等条約:日本は清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせる。これにより中国の冊封体制が崩壊。
 
1895/04/23
仏独露の三国干渉により遼東半島を返還
 
1895
李氏朝鮮の行政区画の改編、道、県、都護府を廃止して観察府と郡にする
明治30年
1897/10
朝鮮高宗が皇帝に即位し、国号を朝鮮国から大韓帝国と改める
明治37年
1904/02/06
日露日露戦争勃発 1905年(明治38年)9月1日休戦 10月14日終戦
開戦にあたり、アメリカは日本を支持した。
 
1904/02/23
日本・大韓帝国日韓議定書 締結
 
1904/08/23
日本・大韓帝国第一次日韓協約 調印
明治38年
1905/09/05
日露ポーツマス条約 調印
ロシアは朝鮮半島に於ける日本の優越権を認める
日本は、これ以上戦争を続けられない状況にあり、賠償金・領土割譲を譲歩してでも講和条約締結を優先させた。
 
1905/10/27
日本日本政府は、大韓帝国を保護国とすることを閣議決定する
 
1905/11/17
日本・大韓帝国第二次日韓協約 調印
大韓帝国は外交権を失う
明治39年
1906
日本・大韓帝国韓国統監府が置かれ、日本の保護国となる「保護国」については、一層の考察が必要。
明治40年
1907/07/20
大韓帝国高宗退位、純宗が皇帝に即位
 
1907/07/24
日本・大韓帝国第三次日韓協約 締結
明治41年
1908/06/18
日本日本からブラジルへの初めての移住。笠戸丸には168家族781人が乗り、サントス港へ到着。ちなみに、猪木は約50年後にブラジルへ移住する。
明治42年
1909/10/26
日本・大韓帝国韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される
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時代背景:日本統治時代 (~1945/08/15)

明治43年
1910/08/22
日本・大韓帝国韓国併合ニ関スル条約(通称:日韓併合条約) 調印
 
1910/08/29
朝鮮韓国併合が実施され、朝鮮総督府が設置される
 
1910
朝鮮土地調査事業開始(~1918)
明治45年
1912/01/01
中国中華民国が樹立
 
1912/02/12
北京にいた清の皇帝溥儀(宣統帝)は退位させられ、清は完全に消滅する。
大正元年
1912/07/30
明治天皇の崩御に伴い皇位交代。元号は大正とする。
大正8年
1919/03/01
朝鮮三・一事件(独立運動)
 
1919/04
大韓民国上海に大韓民国臨時政府(亡命政府)樹立
李承晩(イ・スンマン)、呂運亨(ヨ・ウニョン)、金九(キム・グ)
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