力道山(역도산) 相撲時代

金信洛から力道山へ。日本の大相撲・ニ所ノ関部屋へ入門。関取となり、関脇まで昇進する。一度陥落するも三場所で関脇に復帰。

この間、歴史は大きく変わる。日本は大戦で負け、敗戦国となり、生地である朝鮮は戦勝国となる。しかし、朝鮮は南北に分断され、朝鮮戦争が勃発。

それから2ヵ月、自ら髷を落とし廃業へ。

相撲時代(昭和15年~昭和25年)

プロフィール(相撲時代)

所属
二所ノ関部屋
初土俵
昭和15年 5月
幕内通算
11場所 75勝54敗15休
最高位
関脇 直弟子の出世頭
四股名
力道山 光浩(りきどうざん みつひろ)
得意技
突っ張り、吊り出し、左上手投げ
組手
右四つ
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時代背景

  • 人類初の原爆被弾。(1945.8.6、8.9)
  • 満州事変から14年に渡る戦争が敗戦という結末で終わる。(1931.9.18-1945.8.15)
  • 日本国憲法公布。(1946.11.3、翌1947.5.3施行)
  • 闇市横行。
  • 戦災浮浪児は靴磨きやモク拾いが定職。
  • DDT
  • 全国で学校給食(有料)が始まる。(1947.1)
  • パンパンガール急増。性病が蔓延。浮浪者も激増。
  • 片山哲内閣成立(社会党内閣)。(1947.5.24-1948.3.10)
  • 古橋広之進が水泳400㍍自由形で世界新記録(日本選手権、非公認記録)。
  • 福井地震(1948.6.28)
  • 極東国際軍事裁判、判決言い渡しと刑の執行。(1948.11.4判決)(1948.11.23死刑執行)
  • 「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進・水泳選手が全米水上選手権大会で4種目制覇。しかも、すべて世界新記録。

出来事

二所ノ関部屋へ入門した金村光浩は、角界でも恐れられていた“二所の荒稽古”の中でも兄弟子から嫌われるほどの稽古量によって、めきめきと頭角を現す。

朝鮮半島から一人で海峡を越え日本本土で大成することを夢見た少年は、大相撲で十両に昇進したその年に日本が敗戦し失意のどん底に落ちる。「神国日本は負けるはずじゃなかったはずだ」と、東京スポーツ記者・櫻井康雄に語った。この言葉に日本と朝鮮の歴史の一面が凝縮されていると私は思う(こう思っている人もいたのだろうということ)。

しかし、力道山は下を向くことなく部屋の復興と自身の更なる上位への情熱は人一倍あり、活躍する。

が、突然自ら廃業…

太平洋戦争勃発〜終戦(昭和15年〜昭和20年)

昭和15年(17歳)
1940/04
ニ所ノ関部屋入門。 あだ名は「キム」
 
1940/05/06
新弟子検査合格
 
1940/05 5月場所
初土俵(前相撲)
■ 成績不明
 
1940
大韓民國臨時政府大韓民國臨時政府(上海)は日中戦争勃発後、重慶に移る
 
1940/09/27
世界日独伊三国軍事同盟締結、実質上、対米軍事同盟である。
 
1940/11/10
日本紀元二千六百年式典が宮城外苑広場にて開催され、5万人参加
昭和16年(18歳)
1941/01 初場所
■序の口(西序の口二十一枚目):5勝3敗
四股名は『力道山 昇之助』(四股名①)。出身は朝鮮。
力道山の名は二所ノ関部屋に飾られた近衛 文麿の揮毫「力心一道」に因んだ。このころのヘアスタイルはなんとアフロヘアーだった。
 
1941/05 5月場所
■序二段で6勝2敗
四股名を『力道山 光浩』(四股名②)。
 
1941/10/18
日本東条英機軍人内閣誕生
 
1941/12/08
日本「西の風 晴れ」真珠湾奇襲攻撃開始(ハワイ現地時間12月7日)。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発
奇しくも、後に力道山が刺された日にちである。ちなみにジョンレノンの命日(1980/12/08)でもある。
 
1941/12/09
大韓民國臨時政府大韓民國臨時政府(重慶)は、日本に宣戦布告。ただし、日本政府への布告文書は通達されていない。
 
1941/12/16
日本戦艦大和 就役
昭和17年(19歳)
1942/01 初場所
■東 三段目で8戦全勝優勝
四股名は『力道山 信洛』(四股名③) 幕内優勝:双葉山(9回目)
 
1942/02/16
大韓民國金正日 ロシア沿海州にあるヴォロシロフ(現:ウスリースク)で誕生。ユーリ・イルセノビッチ・キム、通称ユーラ。キムジョンイルは朝鮮開放後。"金正日"は1980年の第6次党大会にて初めて確認されている。
 
1942/05 五月場所
■東 幕下で5勝3敗
雑誌『野球界』の「幕下力士放談會」で『僕は半島の出身のようになってゐますが、本當は親分(玉ノ海)と同じ長崎縣ながさきけんですからよろしく』
 
1942/06
満州朝鮮巡業で二年ぶりに生まれ故郷に帰る。妻と再会。
 
1942
ブラジル太平洋戦争勃発から一年、日本との国交を断絶。
昭和18年(20歳)
1943/01 一月場所
西 幕下で5勝3敗
 
1943/02
日本日本軍、ガダルカナル撤退。
 
1943/03/07
娘 英淑(ヨンスク)誕生 旧暦2/2
 
1943/05 五月場所
西 幕下で5勝3敗
 
1943/06/05
日本山本五十六27代連合艦隊司令長官(同年4月18日戦死)の国葬に力道山他力士たちも沿道に立つ。
 
1943/07/04
長崎県大村市出身、力道山光浩(本名 金村光浩)となる。
 
1943/09/23
日本閣議で「国内必勝勤労対策」を決定し、女子の勤労動員されることとなる。
 
1943
二所ノ関親方の独断で、部屋総勢で勤労報国隊を結成し、神戸尼崎の鉄工所で勤労奉仕を行う。
 
1943/12
力道山「勤労奉仕」中左手首亀裂骨折
昭和19年(21歳)
1944/01
長女:千栄子 誕生
 
1944/01 一月場所
■東 幕下 3勝5敗 初土俵以来初の負け越し
その後、国技館は大日本帝国海軍に接収された。
 
1944/03
軍需工場での勤労中、力道山がアメリカ軍捕虜殴打事件。戦後二所ノ関親方が「捕虜虐待」容疑で拘引され取り調べを受ける(因果関係は不明、親方自身もアメリカ軍捕虜を殴ったことを後に語っている)。翌月になって釈放される。
 
1944/05 五月場所
■東 幕下 5戦全勝優勝 出身:肥前 四股名は『力道山 光吉』(四股名④)
国技館が軍に接収されていたため、後楽園球場にて開催。
肥前(ひぜん)とは、現在の佐賀県と、対馬・壱岐を除く長崎県に相当する。後の養父・百田己之助の住まい大村が相当する。
 
1944/07/04
戸籍には本籍:咸鏡南道浜京郡龍源面新豊里三七番地 父亡金錫泰 母巳 三男金村光浩 戸主金村 恒洛 昭和19年7月4日発行
 
1944/07/09
日本日本軍、サイパン島で全滅
米軍はサイパン島を占領し、ここを基地とし日本本土への空襲を開始
 
1944/11 十一月場所
十両昇進 初の大銀杏
■十両 西10 7勝 3敗 二所ノ関部屋から幕内の神風と共に花形力士となる
前年より1場所増え、年三場所開催。国技館はまだ使用できず、1月場所での野外興行は困難なため2ヶ月早めたため。後楽園球場での開催。
 
1944
朝鮮徴兵令施行 語弊があってはいけないので、改めます。
日本統治時代の朝鮮において徴兵検査が行われた。以前は飽くまで“志願”兵にとどまっていたが、内地日本人と同等の措置と考えるべきか。
『朝鮮徴兵令』なるものの確証がみつからないので、このような表現にとどめることとした。前年に海軍特別志願兵令(昭和18年勅令第608号)があった事実はある。
昭和20年(22歳)
1945
母(たつ)死去の手紙ため2度目の帰郷。英淑ヨンスク・二歳。実際は1953年ごろとされる(英淑が10歳頃)。
 
1945/02
ソ連ヤルタ会談:ソ連が対日戦の了解を米にとりつけた。
 
1945/03/10
東京大空襲。国技館焼失。二所ノ関部屋(両国)焼け落ち、高円寺の真盛寺(杉並区堀ノ内)に疎開。その後力道山は、両国の部屋復興に必要な資材や資金の調達に奔走する。
 
1945/06 夏場所(非公開)
■十両 東4  3勝 4敗
 
1945/06/06
ブラジル日本に宣戦布告。
 
1945/08/08
ソ連ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告し、満州への侵攻を開始する。
 
1945/08/15
日本敗戦、終戦 朝鮮は戦勝国扱いとなるがその後アメリカとソ連によって二分される。

終戦と戦後の苦悩(昭和20年〜昭和25年)

終戦一年後に幕内昇進。相撲では優勝決定戦に出場など大活躍をするも、祖国では米ソのそれぞれの支援を受けた李承晩と金日成が国家樹立を宣言し祖国は分断されてしまった。また、関脇まで昇進するも、祖国では同一民族による朝鮮戦争が勃発、それから2ヶ月後に突然とも思われる廃業。

 
1945/
日本解放後、一部の朝鮮人たちはそれまでの鬱憤をはらすかのように各地で略奪や暴動事件を起こしていた。そんな朝鮮人には力道山は嫌気をさしていたようだ。
 
1945/09/02
日本ポツダム宣言を受諾:無条件降伏 A級戦犯
 
1945/09/10
日本(在日)在日本朝鮮人連盟中央結成準備委員会
 
1945/09/14
日本(在日)在日本朝鮮学生同盟(朝学同)結成(後、在日本朝鮮人留学生同盟と改称在日本朝鮮人総聯合会の傘下団体
 
1945/10/15
日本(在日)在日本朝鮮人連盟(朝連)新宿で結成 日本共産党が支援する
1949/9/8解散命令
 
1945/10/26
旧両国国技館は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、翌年'46/9/24メモリアル・ホールとして改装された。
 
1945/11 十一月場所
■十両 東7  8勝 2敗
接収後(改装前)の焼け爛れたままの国技館で開催。
 
1945/11/06
日本(在日)朝鮮建国促進青年同盟(建青)結成
 
1945/11/26
大相撲双葉山引退
力道山は結局双葉山の胸を借りることができなかった。
昭和21年(23歳)
1946/01/01
日本天皇人間宣言
 
1946/01/20
日本(在日)新朝鮮建設同盟(建同)結成 ※力道山が結成大会に出席する
 
1946/03/15
長男:義浩 誕生
 
1946/09
日本日本赤十字が旧満州に残された日本人引揚者ら収容所の人々の帰国移送を始める
 
1946/10/03
日本(在日)在日朝鮮居留民団(民団)結成
1948年の大韓民國の成立とともに「在日本大韓民國居留民団」に改称した(1994年に「在日本大韓民國民団」に改称)
 
1946/11 十一月場所
幕内昇進 入幕 得意技:上手投げ、吊り、上突っ張り(後の空手チョップの原型)
■西前17  9勝 4敗
明治神宮外苑にて本場所開催
大相撲若乃花 幹士(当時は勝治)初土俵
当時 二所ノ関部屋所属
昭和22年(24歳)
1947/03/06
日本(在日)在日本朝鮮民主青年同盟(民青)結成
共産主義闘争を目的とする組織。1949/9/8朝連とともに団体等規正令によって解散させられた
 
1947/05/02
日本大日本帝国憲法:外国人登録令公布・即日施行(一部翌日=日本国憲法施行の日)
台湾人・朝鮮人が外国人と規定された。
事実上、朝鮮人(台湾人含む)は講和条約発効まで基本的に日本国籍を保有するが、外国人管理下に置くための「みなし」規定である。これは、現在も継承されている。
 
1947/05/03
日本日本国憲法施行
 
1947/06 六月場所
■東前 8  9勝 1敗 至明治神宮外苑
この場所から始まった優勝決定戦で一横綱二大関と四つ巴戦 東横綱:羽黒山、西大関:前田山、西張大:東富士、東8:力道山。「力道山の勇み足」で横綱に敗戦(決まり手は『打っ棄り』)。 優勝は横綱の羽黒山
優勝旗手を手にする この場所を最後に廃止された。
 
1947/10
日本美空ひばり、歌手として本格デビュー
 
1947/11 十一月場所
■東前 3  6勝 5敗
昭和23年(25歳)
1948
小沢文子(芸者)とは、このころ('48年頃)からとされる
 
1948/05 五月場所
■東前 2  8勝 3敗 初の殊勲賞。金(照國)。初日の前田山とは取り直しの末不戦勝のため金星はつかなかった。
優勝は大関の東富士。
 
1948/08/15
韓国李承晩が大韓民國を樹立を宣言
 
1948/09/09
北朝鮮金日成による朝鮮民主主義人民共和國 成立
 
1948/09/21
次男:光雄 誕生
 
1948/10
大相撲第四十代横綱 東富士(高砂部屋)誕生。太刀持ちは力道山が勤めた。普通であれば同部屋もしくは一門で番付が一番上の者(三役以下)が担当するが、東富士と力道山は一門も異なる。ただ、同じタニマチ(新田新作:新田建設・明治座社長、新田組組長)であった縁によるものだ。
 
1948/11 十一月場所(大阪場所)
■東小結  6勝 5敗(不戦勝1)6日目横綱前田山戦にて、軍配は前田山に上がったものの、判定不服と脚の痛みを理由に支度部屋に帰ってしまったため、取組放棄として力道山が不戦勝となった。因みに、先場所も力道山は前田山から不戦勝をもらっている。また、次の場所でも力道山は前田山から不戦勝をもらっていて、同一カードでのしかも三場所連続は相撲界の珍事として有名。
昭和24年(26歳)
1949/01 一月場所
■西小結  8勝 5敗
 
1949/02
宴会で川ガニを食し、肺ジストマ発病(入院・闘病生活~4月:2ヶ月)
 
1949/05 五月場所
関脇昇進
■西関脇  3勝12敗 11連敗
 
1949/10/01
中国中華人民共和国建国
 
1949/10 十月場所
関脇陥落 出直し場所
■西前 2  8勝 7敗 金(東富士)
昭和25年(27歳)
1950/01 一月場所
■西小結 10勝 5敗
 
1950/04/16
柔道国際柔道協会、プロ柔道旗揚げ試合を東京・芝のスポーツセンターにて開催。初代全日本プロ柔道チャンピオンは勿論木村政彦七段。大スポンサーは高野建設。
 
1950/04/21
大相撲横綱審議委員会発足 初代委員長は元貴族院議員・農林大臣等の酒井忠正氏(後に日本プロレス協会の会長)
 
1950/05 五月場所
関脇復帰
■西関脇  8勝 7敗
五尺八寸五分・二十九貫(約177㎝,約109㎏)
 
1950/05/24
「保険放火容疑で力道山を取調べ」産業経済新聞6/14付朝刊
 
1950/06/25
朝鮮(韓国・北朝鮮)朝鮮戦争勃発 
日本国内では、以後特需により朝鮮戦争停戦までの3年間で10億ドルと言われる。
 
1950/08/10
日本「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により警察予備隊設置
 
1950/08/25
日本橋浜町の自宅台所で夜明け、刺身包丁自ら髷を切る。ただし、力道山引退を報じる写真で新番付表を見ているが、頭には髷があるので髷を切った日がこの日なのかどうか不確かである。なお、「落とした」とはないので切った長さが短かった可能性もある。
 
1950/09/11
秋場所新番付発表。そして同日引退を表明。
 
1950/09
■西関脇 15休(廃業)
幕内通算 11場所 75勝54敗15休 同1殊1金2
通算成績135勝82敗15休、幕内在位11場所
休場を除けば6割2分以上の勝率である。ちなみに親方の玉の海は5割8分、初の外人力士とされる高見山は4割7分、小錦でも5割7分、曙は流石横綱7割4分。大鵬は8割を越す脅威!
ちなみに、先に引退した朝青龍は、通算 55場所 596勝153敗76休 優25。なな、なんと7割9分6厘
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