力道山(역도산) 幼少・少年時代

日本の支配下にあった朝鮮半島で生まれた力道山。力道山の少年時代と故郷朝鮮半島から海峡を渡るまで。

出生については、いくつかの説があるが、ここでは日本本土に渡ってからの戸籍ではなく、同じ村で小学生時代を過ごした、焼き肉屋のオヤジの説で歴史を辿ることとする。

幼少・少年時代(大正13年~昭和15年)

大正12年(0歳)
1923/07/14
朝鮮半島(咸鏡南道浜京郡龍源面新豊里三七番地)生まれ。本名、金信洛。参男
 
1923/09/01
関東大震災
 
1923/10/26
ウォルト・ディズニー・カンパニー設立
大正13年(1歳)
1924/11/14
プロレスラーとなってから公表されている生年月日
大正14年(2歳)
1925/12/28
大相撲東京大角力協会 改め、財団法人大日本相撲協会設立。
昭和元年(3歳)
1926/12/25
日本大正天皇の崩御により践祚(せんそ)する。第124代天皇、陸海軍大元帥となる。時に25歳。
昭和2年(4歳)
1927/1/5
大相撲前年に解散した大坂相撲協会が、大日本相撲協会に合流して、東西大相撲が合併。
昭和4年(6歳)
1929/10/24
世界ニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価暴落を端に発した世界恐慌(米、英、仏、独、伊、日本)
昭和6年(8歳)
1931/09/18
昭和7年(9歳)
1932/03/01
満州滿洲國建国.表向きは五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)を揚げた国民国家であることを宣言したが、実質は関東軍が握っていた。⇒これをきっかけに、1933年日本は国連を脱退。
 
1932/05/15
日本五・一五事件 大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱、犬養毅総理を暗殺事件。
昭和8年(10歳)
1933/12/23
日本明仁親王誕生
昭和9年(11歳)
1934/03/01
満州滿洲國皇帝に、溥儀が即位。(国号は)滿洲國のまま。
 
1934/12/26
野球大日本東京野球倶楽部(巨人軍の前身)の設立
昭和10年(12歳)
1935/04
日本溥儀来日
昭和12年(14歳)
1937/09
野球後楽園スタヂアムが建設され、9月に開場。
 
1937/12/10
日本日本軍、南京攻撃開始
昭和13年(15歳)
1938/04/01
 
1938/06
端午節(旧暦5/5)の朝鮮相撲(シルム)大会で長兄(恒洛)優勝。信洛(力道山)は3位。優勝者には牡牛二頭、三位にはカンモクが送られる。
当時牛一頭二十五円~三十円、農夫の日当が二十五銭の時代である。
後の養父・百田己之助にスカウトされる。説得には、供に観戦していた警部補の小方寅一および部下があたった。このため、朝鮮では日本人に強制連行されたと主張するものが多い。
 
1938/12/15
大相撲二所ノ関部屋の親方(第32第横綱玉錦)が急死し、その年小結に昇進した玉ノ海が二所ノ関を二枚看板二枚鑑札で襲名
昭和14年(16歳)
1939/01/15
大相撲横綱双葉山69連勝でストップ。実に3年ぶりの黒星。
 
1939
おそらくこの年、創氏改名で「金村光浩」となる
 
1939
父・金 錫泰(キム・ソクテ)の死去。
昭和15年(17歳)
1940
日本紀元二千六百年
 
1940
北朝鮮で結婚水車小屋の娘、パク信峰シンボン
 
1940/02
冬 朝鮮半島から単身日本に渡る
霊武駅→前津駅→(咸鏡線)→ソウル→(京釜線)→釜山→(関釜連絡線)→下関
下関では玉ノ海の実父である蔭平虎松が出迎える
 
1940
日本高峰三枝子の「湖畔の宿」がヒットする。百田少年は「早く偉くなって出世して、高峰三枝子に会えるような相撲取りになりないと思ったもんだ」と後に回想している。
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