力道山刺殺事件から葬儀まで。謎の多い死因について、真相は?

葬儀には政界・ヤクザの面々がズラリ。親戚代表には妻敬子の父(警察署長)が参列。その真意は闇のまま…。


力道山終末(昭和38年)

昭和37年(39歳)
1962/2/3
アジア・タッグ選手権試合 1対2 で、チャンピオン 力道山/豊登組が、挑戦者R・レンジ/R・ワルドー組に敗れ、タイトルを奪われる。
 
1962/2/15
力道山/豊登組は、アジア・タッグ選手権のリターンマッチで、2対0のストレート勝ちで王座復活。
 
1962/3/28
WWA認定世界ヘビー級選手権:対フレッド・ブラッシー=ベルト奪取(ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアム)。2代目WWA王者となる。
 
1962/3
加瀬テル子さん失踪(北朝鮮による拉致はこれ以前からも行われているようだ) (北朝鮮拉致事件関連年表)
 
1962/4/15
金日成主席50歳の誕生日高級乗用車を送る
 
1962/4/23
WWAリターンマッチ(東京都体育館・千駄ヶ谷)対フレッド・ブラッシー戦。テレビ放映では、一度に6人の老人ショック死
プロレスのテレビ中継規制のきっかけとなる
ノンタイトル戦
 
1962/5
G・馬場が遠征先でNWA世界ヘビー級選手権に挑戦するが敗退しかし6月の5連戦では1勝したがチャンピオンとしての正式記録には残されていない。
また、力道山は国内の報道規制を敷く
 
1962/7/26
ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーのリターン・マッチを受けた力道山が3本勝負の2本めに出血多量で不可解なレフェリー・ストップ負け。3本めは“試合放棄”の判定でWWA世界ヘビー級王座を失う。敵地での防衛はならなかった。
 
1962/9/14
『右胸鎖関節亜脱臼』の重症:東京体育館 対スカル・マフィー戦のニードロップが原因
 
1962/9/19
4戦欠場後カムバック。アメフトのショルダーパッド装着しての出場
 
1962/12/30
婚約
 
1962
東京が世界初の1000万人都市となる
昭和38年(40歳)
1963/1/7
日航スチュワーデス田中敬子さん(21)との婚約発表
 
1963/1/8
極秘に韓国訪問、国賓級の待遇を受ける。韓国・東亜日報「力道山8日来韓、4月に模範試合」と報じるが2度と訪韓することは叶わなかった。38度線で北に向かって叫ぶ
 
1963
リキ観光開発株式会社設立

相模湖畔に広大なゴルフ場「レイクサイド・カントリークラブ」の建設を計画。

土地を買収し、ゴルフ会員権も販売し、建設にも取りかかったが、1963年の死去に伴い未完に終わった。その後、土地が売却され、さがみ湖ピクニックランド(現在のプレジャーフォレスト)となった。

 
1963/5/11
北朝鮮・拉致(2) 石川県で寺越武志さんと叔父2人が船で漁に出て行方不明になる。
 
1963/5/24
日本初『テキサス・デスマッチ・ルール』によるWWA世界ヘビー級選手権試合 チャンピオン:ザ・デストロイヤー(東京体育館)
ビデオリサーチ社による視聴率64.0%歴代4位
因みにビデオリサーチ社調べの最高視聴率は、第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日(火) NHK総合 81.4 %です。あれあれ?
 
1963/6/5
ホテル・オークラで結婚式 媒酌人:自民党副総裁・大野伴睦夫妻、京都府選出参議院議員・井上清一夫妻
 
1963/9/9
ホテル・ニュージャパンにてオリンピック基金財団に1千万円の寄付をする。当時の大卒初任給が1万4千600円の時代
 
1963/11/22
J・F・ケネディ暗殺
他の新聞は全てこのニュースが一面に掲載された中、東スポが唯一『ブラッシー血だるま』『力道不覚!新兵器も不発』を一面に掲載した
昭和38年(40歳)
1963/12/7

最後の試合 ザ・デストロイヤー・シリーズ最終戦 浜松市体育館 6人タッグマッチ

 
1963/12/8

午前九時半、リキ・アパートに高砂親方(相撲協会理事:元横綱前田山)が大相撲のアメリカ巡業の相談に訪ねてくる。 この時、高砂親方にデストロイヤーをロスのボスと紹介し同席させている。この時既に、ウイスキーをストレートで七杯は飲んでいたとデストロイヤーが後に語った。

その後、昼過ぎになると、高砂親方とデストロイヤーを連れ赤坂の料亭「千代新」に場所を変え、酒を呑む。

TBSラジオのゲスト出演の録音のためラジオ局へ移動。
力道山は相当酔っていたためこの日の録音は没となる。

当初予約していた「コパカバーナ」へや行かず、急に「ラテン」へ行くと言い出す。

この「ラテン」とは、「ニュー・ラテン・クォーター」の事であり、昭和35年代あたりまでは力道山の身辺警護をしていた大日本興業のシマである。

午後十時、東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員の村田勝志(当時24歳)に登山ナイフ(刃渡り13センチ)で腹を刺される

ナイフは根元まで刺さったが出血はそれほどなかった。死後の検屍結果では、刺された深さは4センチ、切断箇所18箇所とされている。

力道山が顧問を務めていた町井久之(本名:鄭建永(チョン・ゴニョン))率いる東声会の報復もあったが、山口組(田岡組長)が間に入り手打ちとなる。村田勝志は懲役7年の刑に服し後に住吉連合会系村田組組長となる。

因みに、村田勝志は昭和35年に、リッキー・ワルドーにも喧嘩を売り、短刀で怪我を負わせた前歴が有った。

午後11時40分赤坂の山王病院にて応急手当後一旦自宅に戻る。

 
1963/12/9

明け方(4時ごろ)救急車で山王病院に向かい、午前9時40分外科手術を行い無事終了。午前11時記者会見で、全治2週間と病院側発表。

力道山の病室(501)には、アントニオ猪木、ミツ平井、田中忠治、田中米太郎の四人だけで、妻である敬子夫人や子供たちは、別室にいた。

百田光浩氏病状(力道山)
診断 右腹部刺創 小腸二ヶ所損傷
措置 小腸の創縫合
予後 今後約一ヶ月余の静養を要する見込
    十二月九日 手術担当者 上中省三
             山王病院長 長谷和三
 
1963/12/11

午後6時 ガス排出あり 院長名の病状経過報告書より

この日は、金田正一と張本勲の二人が見舞いに来た。

 
1963/12/14
院長名の病状経過報告書によれば経過良好
 
1963/12/15
腹膜炎から腸閉塞を併発し、再手術。午後4時終了
午後9時危篤状態となり、午後9時50分、死亡。病院は腸閉塞と発表。後に医療ミスによる死亡であることが判明(土肥修司著『麻酔と蘇生』中央公論社)。
秘書の吉村のもとにある死亡診断書(病状経過)

力道山(百田光浩)病状経過
去る十二月九日早朝に行った手術後の経過は一応順調であると思われたが、昨夜半より腸閉塞症を起こし一般状態が次第に悪化し始めた。
よって再手術を本十五日午後二時三十分より行い四時に終了。輸血等により小康を得たが、午後九時より急激にショックに陥り、諸種の手当ての甲斐もなく午後九時五十分、不幸な転機となった。
    十二月十五日
      山王病院長 長谷和三
      聖路加病院外科医長 上中省三
 
1963/12/15
アメリカ遠征中の大木金太郎がWWA世界タッグ選手権を奪取する。
これまでWWAには、多額の金をグレート東郷経由で支払っていたが、かなり搾取されていたようだ。
 
1963/12/20
池上本願寺で葬儀が行われる。
戒名
大光院力道日源居士
墓地
東京都大田区・池上本門寺

葬儀委員長は自民党副総裁大野伴睦(訪韓中のため、児玉誉士夫氏が代行)

*焼香順

  1.   児玉誉士夫
  2.   河野一郎(自民党・衆議院議員)
  3.   樽橋渡(自民党・衆議院議員)
  4.   関義長(三菱電機社長)
  5.   今里広記(日本精工社長)
  6.   安部重作(住吉一家三代目総長)
  7.   岡田一雄(三代目山口組組長)
  8.   岡村吾一(北星会会長)
  9.   町井久之(東声会会長)
  10.   新田松江(新田新作未亡人)
  11.   田中勝五郎(親戚代表:妻敬子の父)
  12.   永田貞雄(興行プロモーター)
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