力道山(역도산) プロレス:修行時代

力道山が大相撲を廃業し、日本人としてプロレスラー転身しアメリカでの修行時代。

相撲時代のタニマチに世話になり、一度は大相撲に復帰の話も出て、部屋へ一度は戻るが、正式な復帰はかなわなかった。

時を同じくして、タニマチに世話になってた頃は、駐留軍の関係者とも上手くつきあっており、人脈を広げていた

大相撲復帰がなくなるとわかると、新しもの好きなのが功を奏し、公開プロレス見学、プロレスのトレーニング、早々のデビューと一気にアメリカ色に染まっていく。

日本のプロレス史のプロローグはこうして始まった。

時代背景

  • 朝鮮戦争勃発(1950.6.25-)。米ソ代理戦争。日本経済は戦争特需に支えられ超回復(特需景気)。
  • 黒澤明監督作『羅生門』(1950年公開)がベニス国際映画祭金獅子賞獲得。(1951)
  • サンフランシスコ講和条約締結。(1951.9.8)
  • テレビ放送が始まる。(1953.2.1)
  • サントリーオールド発売。(1954.4.1)
  • 映画『ゴジラ』公開。(1954.11.3)
  • 神武景気。(1954.12〜1957.6)

浪人時代(昭和25年~昭和26年)

昭和25年(27歳)
1950/11
後援者・新田新作氏の計らいで、新田建設資材部長に就く
 
1950/11
就籍届提出
 
1950/12/末
日本針尾収容所⇒大村の元海軍航空工廠跡地に移転「大村収容所」
不法入国をした外国人を強制送還するための収容施設
現在は「大村入国管理センター」と改め
昭和26年(28歳)
1951/01/09
日本(在日)在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成
日本共産党民族対策部が指導。後に朝鮮総聯の結成により発展的解消
 
1951/01
大相撲横綱決定を相撲の司家であった吉田司家から、相撲協会へ移行。
 
1951/02/19
本籍:長崎県大村市二百九十六番地 百田光浩 父亡百田巳之助 母たつ
講和条約発効前に取得していたことがわかる。先の就籍届からわかるように、帰化ではない。後に長崎県大村市 から東京都中央区日本橋浜町に転籍
 
1951/04/21
日本民間ラジオ局16局に予備免許が交付された。
東京では「ラジオ東京」(現TBSラジオ&コミュニケーションズ)が同年12月25日に開局
 
1951/05
二所ノ関親方(元関脇玉ノ海,力道山の師匠)が日本相撲協会の冷遇さに嫌気をさし廃業。その後、NHK大相撲解説者となる(玉の海梅吉)。
 
1951/06/30
大相撲高砂親方(元横綱前田山)は大ノ海(二所ノ関部屋、後の花籠親方であり、弟子の大ノ海敬士が後にプロレスラー石川孝志となる)、八方山(出羽海部屋)、藤田山(高砂部屋)を連れてハワイ-アメリカ本土へ渡り、公演。後の、高見山スカウトのキッカケともなる。
 
1951/07
野球前年にセパ2リーグ制になって、第一回プロ野球オールスター戦が開催
 
1951/07/21
毎日新聞7月21日付の『米プロ・レスラー来日』記事に「力道山が名乗り」とあり、すでにプロレス関係者となんらかの接触があったことが読み取れる。また、「プリモ・カルネラ」の参加も予定されているとあったが、実現されなかった。
毎日新聞 (1951) 「米プロ・レスラー来日」 昭和26年7月21日(土)(日刊 3面 10版)
 
1951/09/08
日本通称サンフランシスコ講和条約(正式:『日本国との平和条約(英:Treaty of Peace with Japan)』)

法的に、戦争状態を収束するための条約で、連合国諸国と日本が署名(ソ連と中国は不参加)。翌年1952年(昭和27年)4月28日発効。

同時に、日米安全保障条約も締結。

 
1951/秋
日本橋浜町の家(新田新作提供)に男兄弟2人の子供を引き取る
 
1951/09
大相撲相撲協会役員会で「引退ならびに廃業力士は復活させることもある」の一条を相撲協会寄付行為規定に定めることを内定。
「引退力士」とは増位山を差し、「廃業力士」とは力道山のことである。
 
1951/09
力道山は、横綱東富士関の口利きもありで新しい二所ノ関親方と和解し部屋で稽古することを許される。
結局は力士会の反対(来春場所前に協会・力士会にて却下)で復帰は出来なかった。
 
1951/09/30
日本初の公開プロレス(至 両国メモリアル・ホール)をリングサイド最前列で観戦する。「国連軍慰問興行」(日本トリイ・オアシス・シュライン・クラブ主催慈善興行)第一戦。[1]プログラムの価格=10セント、40円(為替:360円/ドル)
 
1951/10/01
銀座のナイトクラブ「銀馬車」でハロルド坂田(ハワイの日系二世)との出会いがきっかけで、東京・芝の水交社でプロレスのトレーニングを遠藤幸吉と共に本格的に開始する。
芝愛宕 銀馬車:中華料理(午後5時より)ナイトクラブ(午後9時より)港区芝田村町5の29
 
1951/10/23
木村政彦がブラジルのリオ・デ・ジャネイロでエリオ・グレイシーと柔道マッチ(柔道VS柔術)で2RTKO 勝ちを収める。
 
1951/10/28
力道山デビュー戦メモリアル・ホールでの4回めの興行で力道山が力道山光浩としてボビー・ブランズとのエキシビション10分1本勝負で時間切れドロー。
この日を以てプロレス元年と称す。GHQ慰問興行第5戦。
 
1951/10/29
力道山はタニマチの新田新作に呼び出され、元力士が毛唐の西洋相撲で失敗してミソを付けられたくなかったので諭されるが、力道山の必死の願いでもう一度だけチャンスをもらった。
 
1951/11/14
神奈川・横浜フライヤージムでプロレス第二戦。GHQ慰問興行第6戦。遠藤幸吉のデビュー戦。
 
1951/11/18
東京・後楽園球場(後楽園スタヂアム特設リング)でプロレス第二戦第三戦 この時の客の反応で、張り手が有効だと直感する。GHQ慰問興行第7戦[2]
 
1951/11/22
仙台・宮城県営球場 ボビー・ブランズと再戦GHQ慰問興行第8戦
 
1951/11/25
大阪・大阪球場 第四戦第五戦GHQ慰問興行第9戦
 
1951/12/11
東京・メモリアルホール ボビー・ブランズと三戦目GHQ慰問興行第11戦(最終戦)
 
1951/12/12
ボビー・ブランズは東京・芝の水交社に力道山とカメラ記者を集め写真を撮らせた。
このときの写真は、ハワイのプロモーターであるアル・カラシックに送られていた。
 
1951/12/13
ボビー・ブランズ帰国

修行時代(昭和26年~昭和28年)

日本国内でのプロレス公演の主役であるボビー・ブランズに気に入られ、アメリカでプロレスラーとしての道を開かれていた。

しかし、タニマチは快くは思っていなかった。しかし、もっとビッグな横綱のタニマチに気に入られていたので、説得を頼み、結局懐柔に成功。

盛大な壮行会を開いてもらい、単身でハワイへ発ち、アメリカ本土へも渡り1年にわたる武者修行を実行した。

昭和26年(28歳)
1951/12/27
ボビー・ブランズから、ハワイのプロモーターであるアル・カラシックからのオファーを伝える手紙が届く。喜び勇む力道山だったが、新田新作に直接話はできない…。そこで、横綱千代の山のタニマチである永田貞雄(日新プロダクション社長)に相談した。
昭和27年(29歳)
1952/01/09
本籍:東京都中央区日本橋浜町三丁目十九番地 亡百田巳之助 母亡たつ
 
1952/01
後の初代理事長となる永田貞雄氏が策略し、新田新作氏を懐柔しプロレス転向を快諾される。
 
1952/02/01
東京・目黒雅叙園で力道山渡米の壮行会が開かれる。
参列者:相撲関係からは、出羽海秀光・相撲協会理事長、横綱東富士、横綱千代の山、酒井忠正・横綱審議会会長ら
文化芸能人関係から、古賀政男・作曲家、村上元三・作家、岩田専太郎・画家ら
政財界から、“政界の寝業師”の異名をもつ大麻唯男代議士ら 総勢300人が集まった。
 
1952/02/03
プロレス修行のため、羽田発飛行機でハワイへ単身渡米。沖識名トレーナーと出会う。
沖識名は名前からもわかる通り、沖縄出身の日系一世なのだ。奇しくもお互い故郷には戻れない境遇にあった。
宿泊先は、YMCA宿舎3階。
ハワイでのタニマチは、三隅愛吉と柴田和吉。
 
1952/02/17
ホノルルのシビック・オーデトリアムでの海外デビュー戦 チーフ・リトル・ウルフにフォール勝ち
 
1952/03/17
アル・コステロ戦(シビック・オーデトリアム)で初めて黒のロングタイツを着用。沖識名の提案で、アメリカンプロレス伝説の王者フランク・ゴッチにあやかる。
 
1952/03/24
第六戦目にして初のタイトル戦は、“殺人鬼”の異名をもつキラー・カールス・デービスとタッグを組み、ラッキー・シモノビッチと師匠であるボビー・ブランズ組が保持するパンパシフィック・コースト・タッグ・チャンピオンシップ(太平洋沿岸タッグ選手権)に初挑戦。
 
1952/03/2430
ハワイパンパシフィック・コースト・タッグ・チャンピオンシップ(太平洋沿岸タッグ選手権)王座奪取(力道山、キラー・デービス組)対戦相手は、B・ブランズ、ラッキー・シモノビッチ。
この試合が第七戦にあたるが、初めてフォールを奪われた試合でもあった。
 
1952/04/01
ホノルルで遠藤幸吉と再会する。遠藤は翌日力道山より先にアメリカ本土入りし、大山倍達と合流し、インディアナ、ミネソタ、フロリダの各州を転戦した。
 
1952/04/28
日本サンフランシスコ平和条約 の発効・公布。日本の主権回復と、日本は朝鮮の独立を認識。 ◾奄美群島出身者でつくる奄美連合復帰対策委員会本部は、この日を「痛恨の日」と定め、弔旗を掲げて抗議姿勢を打ち出した。 ◾沖縄では、県民にとっての「屈辱の日」であるとした。
日本(在日)外国人登録法制定 いわゆる外地人の日本国籍喪失。力道山は既に就籍届が認められているためこれに該当しない
 
1952/06/10
サンフランシスコ到着 同夜 米本土第一戦
サンフランシスコでの契約は、一試合五百ドル、タイトルマッチはプラス二千ドル、オプションで入場者数による歩合付きという破格の待遇。
 
1952/07/03
米・サンフランシスコでレオ・ノメリーニと対戦し、初めての敗北を喫した。06/26説もあり。
 
1952/07/04
米・サンノゼで“喧嘩ファイター”フレッド・アトキンスに前夜のレオ・ノメリーニ戦で負傷した肋骨(あばら骨)を執拗に攻められ、為す術無く二日連続でフォール負け。
アトキンスの弟子には、ジャイアント馬場(ビッグ馬場)やタイガージェットシン(ヒンズーハリケーン)がいる。
 
1952/07/10
シャープ兄弟のNWA世界タッグ選手権に初めて挑戦。1-1のまま時間切れドロー。タッグパートナーの重要性を思い知らされる。
 
1952/09/
ロスに転戦し、そこでグレート東郷と初めて出会うことになる。
先に米本土入りしていた遠藤幸吉は、グレート東郷と大山倍達と東郷三兄弟として各地を転戦していた。
 
1952/12/23
試合後、若き日のディック・ザ・ブルーザー(当時23歳)とバーで出会いお互い力自慢競争し、意気投合する。
ディックは、ビールの蓋を指で開け手でちぎって見せ、力道山は相撲の幕下時代にやっていた得意のコップ食いをやって見せた。
昭和28年(30歳)
1953/01
日本NHKのテレビ本放送に先駆けシャープが国産第一号のテレビを発売。14型の価格は175,000円。当時の大卒初任給が8千円。総務省の統計:男子の高校進学率約52%、同大学進学率はデータなく翌年は約15%。平成元年では、高校進学率約93%、大学進学率約36%。ちなみに、昭和45年以降の高校進学率は男子より女子の方が多い(1970:男81.6%、女82.7%)。
 
1953/01/22
ロス・オリンピック・オーデトリアムで“レッド・スコーピオン”タム・ライスと45分1本勝負で、初の反則負けをくらう。
 
1953/02/01
日本NHKが日本で始めてテレビ本放送を開始
 
1953/02/07
第一回渡米より帰国
戦績は300戦295勝5敗(シングルでは3敗内1敗は反則負け
3敗の相手は、タム・ライス、フレッド・アトキンス、レオ・ノメリーニ
記者会見では、約220試合で敗れたのはシングル三試合とタッグマッチ二試合のみと発表
帰国土産に28インチテレビ、車3台(キャデラック、ジャガー、クライスラー)

敗戦正式記録

  • 1952/5/11 ホノルル タム・ライス L 5/11はレッド・スコーピオンと対戦しているポスターもあるのだが…。
  • 1952/6/1 ホノルル タム・ライス L
  • 1953/2/2 ヴァレーホ フレッド・アトキンス L
  • 1953/2/3 シスコ  レオ・ノメリーニ L

仲兼久忠昭(2017)『力道山史 否! 1938−1963』闘道館

準備期間(昭和28年~昭和29年)

日本国内でのプロレス公演の主役であるボビー・ブランズに気に入られ、アメリカでプロレスラーとしての道を開かれていた。

しかし、タニマチは快くは思っていなかった。しかし、もっとビッグな横綱のタニマチに気に入られていたので、説得を頼み、結局懐柔に成功。

盛大な壮行会を開いてもらい、単身でハワイへ発ち、アメリカ本土へも渡り1年にわたる武者修行を実行した。

力道山は、アメリカでプロレスがテレビ放送されていることを知っており、日本でもいい広告となることを確信していた。これは、力道山自ら読売新聞社社主に直談判していることからも容易に読み取れる。このとき正力松太郎は即答していない。正力も周到な調査をし結果、放送に踏み切っている。

ハワイでの修行で身につけた空手チョップのうち水平チョップは、日系二世レスラーであるデューク・ケムオカの得意技を見て盗んだものである。また、沖識名トレーナーから、目標とするならルー・テーズとシャープ兄弟(当時のNWA世界王者とNWA世界タッグ王者)の3人であることを教えられ、実際に対戦し肌で感じ帰国している。

昭和28年(30歳)
1953/03/05
ソ連スターリン死去
 
1953/07/01
力道山道場設立(日本橋浪花町)
 
1953/07/01
日本プロレス協会設立JWA Logo ※1
会長には後の初代横綱審議委員会委員長の酒井忠正氏。その他、日本プロレスリング興行株式会社(新田新作社長、永田貞雄常務、百田光浩取締役)、リキ・エンタープライズ株式会社もこの頃設立
 
1953/07/18
大阪府立体育会館で、山口利夫(プロ柔道出身)が清美川(元大相撲・伊勢ヶ浜部屋出身)と「柔道対相撲」の対決を「プロレス形式」で興行を行っている。
 
1953/07/27
朝鮮朝鮮戦争停戦 休戦協定調印(板門店)
 
1953/07/30
日本プロレス協会設立発表セレモニーと「力道山道場」ジム開き開催:プロレス記念日
 
1953/08/18
日本正力松太郎は自社の放送開始前に、街頭テレビを関東一円(都内29ヵ所、周辺部13ヵ所)に設置
 
1953/08/28
日本NTV日本テレビ放送網が政財界の反対を押し切り民間で初のテレビ放送を開始
ちなみに、29日には民間初のプロ野球巨人-阪神戦(後楽園球場)を中継
 
1953/秋
力道山道場の旗揚げ試合が来年(昭和29年)初春に行うことが日本プロレス協会理事会、および日本プロレスリング興業株式会社の役員会で決定。
 
1953/10/06
2度目のアメリカ遠征に出発。その後ルー・テーズに挑戦するためハワイへ移動。
 
1953/11/29
挑戦権トーナメント決勝でボビー・ブランズと戦い、2-1で下し王座挑戦権取得
 
1953/12/06
ハワイ・ホノルル市シビック・オーデトリアムで鉄人ルー・テーズとNWA世界戦。 43分バックドロップでTKO負け
 
1953/12/06
大阪府立体育館で山口利夫が二度目の興行
昭和29年(31歳)
1954/02/12
2度目のアメリカ遠征からNWAのプロモート権を土産に帰国
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※1) 日本プロレス協会

昭和28年(1953年)7月1日設立

会長
酒井 忠正 (元伯爵、横綱審議委員会初代委員長、元農林大臣)
理事長
新田新作 (元新田建設会長、明治座社長)
常務理事
永田 貞雄 (日新プロダクション社長)
理事
林 弘高 (吉本株式会社社長)
今里 広記 (日本精工社長)
永田 雅一 (大映社長)
松尾 國三 (千土地興行株式会社社長、雅叙園観光株式会社社長)
加賀山 之雄 (元第二代日本国有鉄道総統、緑風会参議院議員)
吉田 秀雄 (電通4代目社長)
古荘 四郎彦 (初代千葉銀行頭取)
顧問
萩原 祥宏
大麻 唯男 (当時改進党衆議院議員)
太田 耕造 (元第41代内閣書記官長、後の亜細亜大学学長)
相談役
出羽ノ海 秀光 日本相撲協会理事長

日本プロレスリング興業株式会社

資本金五十万円

社長
新田 新作
取締役
永田 貞雄
林 弘高
百田 光浩(力道山)
レスラー
遠藤 幸吉
二所ノ関一門 出身
田中 米太郎(力道山相撲時代の付き人:四股名は土佐風)
元十両 玉ノ海(二所ノ関部屋)(本名:恵良 正行)
元幕下 新高山(花籠部屋)
元幕内 駿河海(出羽ノ海部屋)(本名:杉山 光夫)
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